発達障害もち薬剤師の随想録

発達障害を併発する薬剤師である筆者が、ADHD気質からの多くの経験から思う事をASD気質で書くブログです

幕末の適塾とDeepL翻訳

当時住んでいた大阪市内のマンションから地下鉄御堂筋線で数駅、淀屋橋のビジネス街の一角に江戸時代の適塾が今でも残っていると知り意気揚々と足を運んだことがある。

 

適塾は幕末の折、医師である緒方洪庵が開いた私塾であり塾生の中で最も有名な人が福沢諭吉であろうかと思う。他にもアドレナリンを発見・結晶化した高峰譲吉や政治家の大鳥圭介など名だたる有名人を輩出している。酸鼻を極めた度重なる大阪大空襲の戦火を奇跡的に免れ、現在でも当時の建物が残っていて記念館として保存されている。

 

小笠原諸島に滞在していた時、内地へ向かう平時は週に1便だけの船が出た翌日は他の観光業者同様に休みをもらっており、その休みを利用して午前中は農園でボランティアをさせて頂いていたことがあったのだが休憩中に、同じくボランティアをしていた島の年配の人がこれは今読んでいるが面白いと教えてくれたのが、司馬遼太郎の「花神」であった。

 

私も早速、島の図書館で借りたか通販で買ったか覚えていないが、兎にも角にも花神を読むことにしたわけであるが、これが本当に面白くてのめり込んでしまった。

 

主人公は村田蔵六、のちの大村益次郎である。大村益次郎は先述の大阪の適塾の出身であり非常に優秀であったため塾頭も務めている。適塾緒方洪庵の存在を知っている程度に過ぎなかったが、花神を読んだことにより世間ではあまり知られていない、適塾内での教育方法に触れることが出来て関心を持ったわけだが、小笠原諸島から帰ってきた同じ年に何の因果か大阪市内に住むことになったのである。

 

適塾内で教えていたのはオランダ語の読み書きであった。当時、医学でも物理学でも西洋の最新の知識は鎖国下であっても西洋諸国の中で唯一交易を許されていたオランダから入ってきていた。つまり、オランダ語の読み書き否、読みさえできればオランダ語で書かれた最新の医学や物理学の書物を読み解くことができ、学ぶことができたわけである。

 

塾、と言っても医学や物理学を直接教えるわけではなく、オランダ語の読み書きは教えるからオランダ語で書かれた個々の興味のある医学でも物理学でも化学でも、気になる分野の学問を教わったオランダ語を使って自分で勉強しなさいということである。

 

塾内には国内で数えるほどしかない、日本語⇔オランダ語の辞書すなわち蘭和辞典が一部(部分という意味ではなく部数の意、つまり一組だけ)だけあり、ヅーフ辞典と呼ばれたこの貴重な辞書を塾生が奪うようにして勉学に励んでいたという。

 

適塾記念館にはこのヅーフ辞典のレプリカが展示されており、花神などでバックグラウンドを知っている者からすれば「これが、あのヅーフか!」と感心する。何と言っても現在の日本の学問はひとえに、このヅーフ辞典を引きながら医学や物理学、化学などを夢中で勉強していた先人たちによって礎が築かれたことを考えれば、近代日本の文明開化の原点とも言えるこの一部のヅーフ辞典の重みを感じずにはいられない。

 

もっとも、これは現在でも似たような状況である。大学に進学し研究室配属になれば論文などの文献を引っ張ってきて調べ、自分で実験計画を立てねばならない。その文献の多くというよりほとんど全ては英語で書かれている。つまり、英語が出来なければ研究室では何も出来ないのである。日本の英語教育は文法重視で実践的ではないと嘆かれる上に私も以前記事で取り上げたことがあったが、今も昔も最新の情報は英語で書かれていることを鑑みると、英文の一次資料や専門書を読んで情報を探し出し学ぶことに特化すればあながち間違いではないとも言える。

 

最新の英語の情報を直接、自分で得ることができる。

 

この大きなメリットを考えれば、中学校からの6年間ヒーヒー言いながら英語の勉強をしてきた苦労など飛んでしまうではないか。

 

と思っていた矢先、あることを知った。

 

DeepL翻訳というサービスである。これは決してDeepL翻訳の宣伝や手先というわけではないことを初めに断っておく。

 

私はApple社のパソコンである"Mac"を長く愛用しているが、今はWindows版もあるが当初はMac向けのアプリだけが用意されていることを知り早速使ってみて驚いた。あろうことか文献の文字をコピー・アンド・ペーストするだけで自動的に日本語に翻訳してくれる。それもAIの精度が高く、翻訳サイトにありがちな奇妙な日本語ではなくそれなりに整った日本語であり信頼性が高い。おまけに5000文字までなら無料ときている。

 

言語も英語のみならず数多く用意されており、フランス語や簡体字の中国語にチェコ語まである。

 

これが非常に役に立ってくれたのが今回のコロナ禍である。無数の怪しい情報が錯綜する中、一次情報である文献から情報を直接、得て行く上で大いに力を奮ってくれた。英語の文献もスピーディーかつ手軽に読める上に、漢方に関して本場中国での中医薬品の使われ方を知りたければ中国語の文献をコピー・アンド・ペーストしてしまうだけで、ものの数秒で翻訳してくれるので涙が出そうだった。

 

それにしても大きな時代の変化を感じる。昔ならそれぞれの言語について単語や文法など一から勉強していく必要があった。それが今や、コピー・アンド・ペーストでそれなりの数の言語が一瞬にして翻訳されてしまう。少なくとも情報を得るという目的だけであれば気が遠くなるような新しい言語の習得作業をせずに済み、それに費やすはずだった膨大な時間やお金やエネルギーを別の時間に充てることができるわけで随分と効率の良い時代になったものである。

 

では、かつての適塾オランダ語の読み書きを教えていたように、英語の読み書きを教える従来型の教育は必要ないかと言えばそうではないと思う。微妙なニュアンスの違いや翻訳の曖昧な部分はコピー・アンド・ペーストではどうにもならず、原語を直接確認しなければならない。最新情報の原語の大多数が英語である以上、この先も英語の学習をやって損をすることはないと私は考えている。

 

DeepL翻訳のような便利なサービスがこれからどんどん出てくるのだろうが、こういう時代において重要な役割を果たす学問は英語など外国語以上に、実は国語なのではないかと考えている。

 

翻訳サービスで翻訳してもらって、どこかこの日本語はおかしいぞと気付くことができるのはひとえに国語力の賜物である。国語である日本語を疎かにしていれば訳文のニュアンスの違いに気づくことができない。

 

適塾で教わっていた塾生たちは幼少期から相当なまでに国語の基礎を叩き込まれていることは、当時の時代背景から容易に想像がつく。その基礎の上にオランダ語があり、学んだ学問を積み重ねていたのではないだろうか。

 

このブログを書いていると「を」や「の」、「が」といった助詞の使い方であったり、どこに句読点を打つべきか、ことわざや送り仮名は正しいのかという「実に微妙なところ」で悩むことが多い。小さな事に見えるが、本当に信じられないくらい雰囲気や文脈が変わってしまう。

 

どうにも国語を疎かにしてきたような気がしてきて、自戒の意味を込めて今回の記事を執筆したのであった。

 

(おわり)