つい最近まで綺麗な色を発して群生していた曼珠沙華(マンジュシャゲ)、いわゆる「ヒガンバナ」が気付くとその鮮やかな色が失われて枯れてしまっているではないか。一週間が飛ぶように過ぎていくので桜もセミもコオロギも本当にあっという間にシーズンが終わってしまうように感じる。
ヒガンバナのことを私の曾祖母は生前「てくされ」と呼んでいたと伝え聞いた。ヒガンバナは知る人ぞ知る毒草であり、触らぬ神に祟り無しということで手を触れないに越したことはない。戒めのためにそう呼んでいたのだろうと想像する。
季節が進み緑のシーズンが終わり、茶色が目立ち始めた田んぼの畦道や畑の片隅に毎年ほとんど狂うことなく、突如として姿を現すヒガンバナはこれから冬を迎えようという雰囲気の中でにわかに明るい雰囲気を醸し出してくれている気がする。
なぜこうも目に止まるのか、どこか独特の美しさを感じさせるのかを考えた時に風景写真をやっていた頃に学んだ色の理論が頭をよぎった。
たかが色、されど色で色にも学問と言うべきか理論がきちんと存在する。この勉強をしておけばデジタル時代の写真の深みや楽しみが倍増すると言っても過言ではない。
そのことを最初に教えてくれたのは、北海道在住の世界的な風景写真家のS先生(以後、Sさんと称する)だった。
彼の写真はApple社のパソコンである"Mac"シリーズのデスクトップ写真にも採用されたことがあり、本来はデスクトップ写真の撮影場所や撮影者の名前は明かされないのだが交渉を重ねた結果、同社から例外的に撮影場所と撮影者を公開することを許されて、美瑛の青い池を一躍有名にされた方でもある。
かつてはマンツーマンで教われる機会があり、てっきりカメラやレンズの話をされるかと思っていたら彼の口から出てきたのは
「これからの時代はカラーマネージメントを勉強しなさい」
という言葉だった。これからの時代、というのはデジタルの時代という意味であり、これは非常に本質を押さえた発言であるとわかる。
仮に総額100万円のカメラとレンズを使って写真を撮ったとする。これは実際にあり得る価格帯でもある。その写真をフォトショップやライトルームなどで丁寧に現像して納得のいく一枚が出来上がり、インターネット上のSNSなどに公開したとして一つの問題が生じる。
「自分が見ている写真と、インターネット上で他人が見ている写真が同じに見えているか?」
これは非常に大きな問題だ。パソコンの画面は特にWindowsの場合は画面がある物は青みが強かったり、ある物は白みがかっていたりと個体差が大きい。自分が使っているパソコンなり液晶モニターなりに映っている写真と、他の人が使っているモニターに映っている写真とが同じに見えるとは限らない。100万円も機材費に投資したにも関わらず、自分が見てほしいと思っている写真が相手に表示されていない可能性も大いに存在するわけだ。
これを解消するのがカラーマネージメントの知識ということになる。例えばデジタルの世界ではモニターのガンマ値は2.2、白色点は6500K(ケルビン)、明るさを示す輝度は80-120cd(カンデラ)と相場が決まっている。
Macの場合はガンマと白色点は上記の数値に標準で設定されているが、Windowsの場合は白色点に個体差があるため機種によって見え方が異なってしまうことがある。モニターは経年で表示される色が変わってくるため、私の場合は写真を撮らなくなった今でもモニターキャリブレーションと呼ばれるモニター画面の調整を専用機器を使って定期的に行っている。
また、Sさんは色についても勉強しなさいとおっしゃっていた。
例えば、デジタルのモニターと紙に印刷されたものの色における大きな違いは白と黒、そして三原色である。デジタルの三原色はRGB(Red,Green,Blue)、インクの三原色はCMY(シアン、マゼンタ、イエロー)となる。こうして三原色の表現領域(再現色域)が異なるため、モニターで見る写真とプリントアウトされた印刷物の写真とでどうしても見え方が異なってしまう問題も生じることになる。
モニター画面の場合はRGBの三原色全てが発光し重なる部分が白色とされる。高校数学で言うところのA∧B∧C(AかつBかつC)の3つの円が重なっているイメージだ。
しかしプリントアウトされた印刷物の白は紙自身の色となり、当たる光が反射して目に映るため、随分と照明の色に左右されることになる。写真展でいい加減な色の照明を当てているのをたまに見かけるが、オイオイといつも心の中でつぶやいている。
反対に黒はモニターが発光していない部分だが、印刷物の場合、実際にはブラックのインク(K)も混ぜて使うものの理論的にはCMYの三原色の全てが重なる部分が黒ということになっている。
デジタル三原色RGBの場合はそれぞれ256ずつパターンがあるので256の3乗で約1,678万色となり、CMYインクの場合は0-100%の101の4乗で理論的には1億色以上となっているがCMYの場合は実際にはそこまで広い色域はなく、むしろRGB(sRGB)の方が少しだけ色域が広い。
Sさんは血の滲むような努力で、デジタルの三原色であるRGBが木や池の色にそれぞれ何があてはまるか把握しているため、普通の人のように勘に頼らないことから、たとえ10年前に撮った写真でも今しがた撮ってきたかのように再現できると話していた。
彼の口癖は「写真を科学する」だった。勘に頼らないこの再現性の高さが重要なのだと。
私が後年、勉強することになる漢方の世界でも故人の名医が「漢方を科学する」と常々言っていたというから面白い。漢方の世界は基本的に今も昔も秘伝、その人だけが為せる技という一面がある。
反面、科学的に漢方を捉えることにより誰がやっても一定以上の再現性がある、治療効果にバラツキが出にくいようにすることを目指していたとお弟子さんたちからよく聞かされていた。戦前の生まれで医学生であったため学徒出陣を免れた世代の方だから、その先見の明は相当なものだ。
私は漢方を学ぶ前に写真家のSさんから全く同じことを聞いていたので非常に驚いたとともに、この考え方をすんなりと受け入れることができたのは言うまでもない。
どこの世界でも科学というものは切っても切れない関係性にあるらしい。
ややこしい話が続き脱線しすぎたが、ヒガンバナの話に戻したい。
この花が人目を引く一つの理由として補色の関係性が大きいのではないかと考えている。十二色相環で有名な補色であり、円になって向かい合わせの色が補色の関係とされている。
補色の一番の特徴は何と言っても「目立つ」ということだ。そのため、広告などで応用されることも多い。
ヒガンバナの花と茎の色の場合は完全な補色の関係ではないが、デジタルの赤(R)と緑(G)と考えるとこれはかなり近い関係性にあると考えて良いと思うし、何よりも本当に目立っている。
補色は「色が補い合う」と書き各々が独立していればよく目立つのだが、混じってしまうと一転して汚い色になってしまうところがまた興味深い。
ヒガンバナを観察すると、真っ赤な色に反り返った独特の形をした花弁と大きく広がる雌雄のしべ、緑の茎という実にシンプルな構成になっている。それも整然と群生しているものだからなお、独特の風格を放っている。
出先の横断歩道で信号待ちをしている時にヒガンバナの群生がふと目に入り「花の赤はRGBのどういう組み合わせなのだろうか、GやBがどれほど絡んでくるのだろうか、いや赤にして赤に非ず、緑にして緑に非ずの深い色味は到底数字で表せるものではないのではないか」などと色々と考えこんでしまった。
毒草とわかっているのに思わず手を触れたくなる不思議。曼珠沙華というサンスクリット語由来の文字にありがちな特徴的な響きと難しい漢字がよく似合うが、どこか危険な匂いが赤と緑で構成される群生からしないでもない。
我々薬剤師なら誰もが知る認知症の治療薬は、このヒガンバナの仲間に含まれる成分から研究されたものらしいのだが、こうして「色」の観点から見てもまた面白いと感心してしまう。
(おわり)
※ヒガンバナが認知症に効くわけではありません。毒草ですので触ったり、間違っても煎じて飲んだりしないでください。