ベトちゃんドクちゃんがくれた「智慧」
ヤフーニュースに「ベトちゃんドクちゃん」の話が掲載されていた。
「ベトちゃんドクちゃん」という子供の存在を知ったのは、インターネットがほとんど普及していなかった小学生の頃だったと思う。
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ベトナム戦争時に米軍が散布した枯葉剤の影響で結合双生児として誕生し、上半身は兄弟なので二人だが下半身は結合ということで一人分しかない状態であった。
分離手術が施されて片足ずつになった後しばらくして兄のベトさんが亡くなられたものの、弟のドクさんは存命である。
十年近く前になるが、その「ベトちゃんドクちゃん」の弟であるドクさんが来日の折、私が通っていた国家試験予備校に講演に来てくださったことがある。なお、「ベトちゃんドクちゃん」という呼び名は子供に対するものであり、当時で三十代前半の立派な大人のためこの呼び名はふさわしいものではない。何でも予備校の社長の知り合いの知り合いのツテを使って来ていただいたらしく、通訳を交えての貴重な講演会となった。
なにせ貴重な機会である。親にも事前に講演の事を話しており聞きたいことがあれば当日に聞いておくと質問を預かっていて、当日になって私もドクさんに直接、いくつか質問をさせて頂いたのだが恥ずかしい事に内容は覚えていない。
それでも覚えていることがある。
Q&Aコーナーが終わり、最後にドクさんからプレゼントがあると通訳が言う。ドクさんが取り出したのは一枚の色紙であり、何やらベトナム語で文字が書いてある。通訳が黒板に板書したのは
「智慧」
という言葉だった。
「ちえ」にはもう一つ「知恵」という漢字もありこちらの方が一般的に知られているが、通訳は意図して「慧」の文字を書いたと話していた。
その二文字を見たときに、私の頭の中のコンピューターが色々と考え始めた。智慧という言葉はもちろん知っており、頭がフル稼働したのは「なぜ、彼は智『慧』という言葉を選んだのか?」という解釈を自分の中で出すためであった。今、このタイミングで自分がこの言葉と出会った理由は何なのか、二十代のみずみずしいまでの感性と好奇心が全力でその答えを知ろうとした。
「智慧」は仏教における六波羅蜜、「布施」「忍辱」「持戒」「禅定」「精進」「智慧」の一つである。
六波羅蜜は仏教の悟りを得るために必要な六つの行いと言われ、私が智慧という言葉を知っていたのは京セラの創業者である稲盛和夫氏の有名な著書「生き方」を読んでいたからであった。
ドクさんがこの言葉を選ばれたのもベトナムは大乗仏教の国家であり、当然のことながら六波羅蜜もご存知であったためと考えている。
六波羅蜜のうち一番大切とされているものこそドクさんが書にしたためた「智慧」であり、智慧以外の五つの蜜は智慧の悟りを得るために必要なものだという。
智慧という言葉をGoogleで検索してみると不思議なことに、当時も今も模範解答のような解釈が全く見つからないのである。
強いて挙げるならば「物事の本質を見極める事」と要約できるのかもしれないが、これでも不十分だと感じる。
当時の私が考えついたのは「私が国家試験の勉強などを通して得た知識や全国を放浪して得た経験の数々は、患者さんのために活きた形で利用されなければならない」というものだったと記憶している。そしてこれは間違いではないと今でも思う。
だが、当時も今も「そんな単純な話で終わっていいのか?」と自問自答する自分がいる。
ドクさんは当時、ベトナムの病院で事務職をされていると伺っていた。同じ医療系ということで、薬剤師国家試験の予備校などという正規の大学でも何でも無い場所での講演を引き受けてくださったのではないかと勝手に想像しているが、恐らくはドクさん自身も私の考えた解釈とほとんど変わらぬ意図をもって「智慧」の書を予備校に寄贈してくださったのだろうと推測する。
私の好きな漫画に「鋼の錬金術師」という漫画があるが、この中で「真実の奥の、さらなる真実」という言葉が出てくる。
十年近く前に私が関心を向けた智慧という言葉は六波羅蜜において最も重要とされているが、六波羅蜜は智慧だけではない。他に五つの蜜も存在し、むしろその五つの行いを基盤として智慧が活きるわけであるため「智慧」だけに捉われることなく、智慧以外の蜜にも目を向ける必要があるのではないか、そして私はどれほどこれら五つの蜜を普段の生活で実践しているだろうかということを、最近のヤフーニュースで「ベトちゃんドクちゃん」関連の記事を見て以来ずっと考えている。
考え出すときりが無いが、あえて智慧を脇に置き、五つの蜜に関心を向けることはあながち間違ってはいないと思うのだ。
そして、なぜ十年近く経った今になって「ベトちゃんドクちゃん」は再び私の前に現れたのだろうか。
みずみずしい感性に溢れ活動的であったが、どこか不安定で危なげなかった二十代とは違い、それなりに精神的にもゆとりが出てきた三十代後半の身となった今、改めてその意味をゆっくりと噛み締めてみるのもまた面白いのではなかろうか。
(おわり)