発達障害もち薬剤師の随想録

発達障害を併発する薬剤師である筆者が、ADHD気質からの多くの経験から思う事をASD気質で書くブログです

教科書100回読みとクラシック音楽

大学生の時の思い出といえば、とにかく試験に追われていたことである。一般的な大学とは少し違っていて毎年全科目必修で全単位をその年に習得しなければならず、1科目でも落とせば情け容赦なく留年になるため学生は皆、それこそ学校敷地内でエアーウォーターガンと水風船でサバゲーをしたり、食堂で毎日一発芸を人が大勢いる前でやっていた、お世辞にも決して真面目とは言えない私たちがつるんでいたグループの面々でさえ、試験前だけは目が血走っていて文字通り命がけであった。

 

辞書のような分厚い教科書を丸々1冊ともう1冊の半分位が試験範囲の科目など最低でも1ヶ月は試験勉強に費やさないと他の科目の勉強もせねばならず時間が足りない。カンニングをする者など誰もいなかった。試験範囲が広すぎてカンニングペーパーを作るより素直に勉強した方が効率が良い上に、そもそもカンニングペーパーも一枚では収まりきらずペーパーではなく冊子になってしまい、カンニングなどやらない方が得策であることは間違いなかった。

 

当然、理解が難しい科目も存在する。しかし理解できないからと放置すれば情け容赦ない留年が待ち受けている。そこで当時の私がふと思いついた方法が

 

教科書を100回読む

 

ということであった。先日、YouTubeの動画のオススメに「教科書を繰り返し読むのは非効率の極み」というような内容の動画が表示されていたが、私は案外そうでもないと感じている。

 

私は実際にこの「教科書100回読み」を実行した。結果として試験は満点で、かなり良い成績となったわけであるが、ただ100回読んだだけではない。この分野の一部をわかりやすく解説した参考書もあったためこちらも併読しつつ、教科書を繰り返し読むことに専念した。

 

その結果、判明したことは

 

1.教科書を繰り返し読んでいると「縦」に知識が積み重なっていく。そして回を重ねるごとに通して読む時間が短くなっていく。1冊通すのに数日かかっていたものが、最終的には1時間程度に短縮されたりする。この知識の「縦」の積み重ねが一番辛い。

 

2.加えて広い分野の一部でもわかりやすく解説した参考書を読んでいると、今まで全く訳がわからなかった分野がふと「こういうことか!」と暗闇に一筋の光明が差し込んでくる感覚がある

 

3.一旦、牙城を突き崩す感覚が来ると「縦」に積み重ねていた知識が「横」に繋がる瞬間が来る。1つの単語や数式で、様々な法則や公式が頭に浮かぶようになる

 

4.3が来ると芋づる式に「なるほど、こういうことか!」という感覚が来て本質的に理解できるようになる

 

といった具合である。過去にうまくいった方法に固執すべきでないことは歴史が物語っているが、私が大学卒業後2年して無勉の状態から短期間で国家試験に比較的良い成績で合格できたのもこの方法を実践したからであり、

 

社会人になった今でも、分厚い専門書を読みこむ必要がある時に応用している。漢方の勉強をする時もこれと全く同じ方法を用いたが、やはり知識量と読み込み回数がある一定の量になった時点で「こういうことか!」という感覚が来て、一気に理解が進むという実感があった。

 

教科書を繰り返し読むだけでは世間一般で言われているように、やはり意味がないと思う。しかし、広い分野の一部でも良いのでわかりやすく解説した参考書を併読すれば話は変わってくるので、参考書の併読は必須である。

 

とここで終わると、タイトルのクラシック音楽が出てこない。

 

私はこの分野に決して造形が深い方ではないが、クラシック音楽を聴いていた時期もあった。実はそのときにも全く同じ方法を取っており、文字通り100回もしくはそれ以上はやったかもしれない。

 

よく「好きなクラシックの曲は何ですか?」と聞かれるが、私は答えられないと回答する。理由は単純で「同じ曲であっても指揮者やソリストの解釈、指揮者と演奏者の相性などで随分と変わってくるから」である。

 

私がクラシック音楽を聴くようになったきっかけがチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲であった。非常に感銘を受けCDや動画を探し回って、様々な指揮者やソリスト、オーケストラが演奏する同じ曲をそれこそ繰り返し聴いた。

 

その結果判明したことは特に好みだと感じる曲を100回でも聴くと、本当にわずかな、微妙な間や緩急強弱、響かせ方などの随分と細かい部分に目が行くようになる。繰り返し聴いたことでベースラインが形成され、他の指揮者やソリスト、オーケストラが演奏する同じ曲を聴くと、不思議なことに同じ曲なのにもはや全く別物であるとすぐにわかった。

 

指揮者とソリスト、オーケストラの人間関係や生きてきた背景、解釈の仕方なども要素として大きいようで、インタビュー記事などでこれらを知るとより一層面白くて、同じ曲でもこの指揮者とソリスト、オーケストラの演奏が良いと感じられた理由が妙に納得できたりする。

 

同じ曲であっても指揮者・演奏者は生きた人間であり、皆それぞれに生きてきた背景は大きく異なる。また当日の健康状態や楽器、気候など様々な要素も複雑に絡み合って一つの曲が出来上がっていると考えると、大昔に作られた曲がまるで生き物のように思えてきてまた違った面白さを感じられ、一時期クラシック音楽にハマっていたのであった。

 

辞書のような漢方書でも繰り返し読んでいると、著者が真に言わんとしていることは本に書かれていないのではないかとさえ感じることがある。"Read between the lines"(行間を読め)という言葉があるが、繰り返し読むことによって微妙なニュアンスを感じられるようになってくるのではないかと思うのだ。

 

繰り返し何かを行う行為は往々にして飽きるものであるが、少し我慢して継続しているとふとした瞬間に、かすかな、本当にごくわずかな違和感のような感覚で何かを感じ取れるようになる気がしている。同じことの繰り返しを好むという行為は私のようなASDの典型的な特性なのかもしれないが、特性の有無に関係なく一旦この感覚をつかむ面白さを知ると案外やみつきになるものである。

 

(おわり)