発達障害もち薬剤師の随想録

発達障害を併発する薬剤師である筆者が、ADHD気質からの多くの経験から思う事をASD気質で書くブログです

赤鼻のおにいさん

部品点数770点の精密ペーパークラフトを完成させ、帆船模型に取り組む日々だったが少し落ち着いてきたので本当に久々の執筆になる。

 

※障害者という表記につきまして※

長年続く障害者の「害の字」問題ですが、障害者当人が害のある存在ではないこと、そして何よりもそんな字のような表面的な事にこだわるよりも、各種申請のしやすさや保障など「実」の面を充実させてほしいので害の字などどうでもよいという障害者当事者としての思いを込めて、障害者と表記させて頂いております。

 

引越し前に適当に詰め込んだダンボール箱を整理していると、赤い、少し風化した丸いスポンジを発見した。ロフトで買ってきた宴会余興用の赤鼻スポンジについている切れ込みをゲームのパックマンの口のような形にして、さらに確実に落ちないようにするために耳の後ろに回して固定できるように、ブレスレット用の細い透明の伸縮性のある紐を通したオリジナル改造版赤鼻である。かつて透明だった紐はスポンジの色が移り、薄赤く染まっていた。

 

最近になって発達障害の診断を受けて私は障害者になったわけであるが、まさか自分が障害者になるとは微塵も感じていなかった10年以上前の大学生の頃にやっていたクラウニングのことをふと、思い出したのであった。

 

「パッチ・アダムス」という映画があり、日本名にはトゥルーストーリー(実話)と副題がついている。パッチ・アダムスは実在のアメリカ人の名前であり彼は医師である。ホスピタルクラウンと言って、風邪のような軽いものではなく重い病気で入院中の子どもたちを、例の赤い鼻をつけたり、面白おかしい服装をしておどけて喜ばせたりする活動を始めた人でもあり、ロビン・ウィリアムズ主演で先述の映画にもなったが、当人を知る人によればパッチ・アダムス氏は身長が2m近くあるおじいちゃんらしい。

 

パッチ・アダムスの映画を見たのは大学も5年生のときであった。何がきっかけで見たのか覚えてはいないがこの時期は病院実習中であり、何か思い当たる節があったのだろうと推測する。当時の私はADHD気質全開の時であり「気になったこと、興味のあることはすべてやる」と言って実際にやっていたわけであるが、映画で感銘を受けた私はご多分に漏れずクラウニングをやってみたいと思い立ち、即座にインターネットで検索して出てきた近隣の団体に連絡したのだが、なんと近日中に小児病棟でクラウニングをやるから来てみないかと誘われたのでこれも縁と思って参加させていただくことになった。

 

いかんせん初めてのことであり、また相手は風邪などとは比較にならない非常に重い病気で入院生活を余儀なくされている子どもたちである。どう接していいかわからず、行きの電車の中でやっぱり辞めようかとずっと悩んでいたのだが、ここまで来て引き返すのは男が廃る、思い切ってやってみようと病室に飛び込むと心配事はすぐに吹き飛んでしまった。案ずるより産むが易し、とはよく言ったものである。

 

どういうことかと言うと、子どもたちはとても元気で笑い声が常に病室に響いていたのである。本当にここは重い病気の人がいる病室なのか、病室を間違えたのではないかと思うほどであり、我々がおどけてみせるとものすごく喜んでくれる。それも、一般の子供たち以上に明るいのではないかという勢いとエネルギーに満ち満ちていた。病室にいた子どもたちや親御さん、そして我々は皆笑顔に包まれ、逆に子供たちから元気をもらったのではないかというほどであった。

 

「小児病棟の子どもたちは元気だよね」とベテランの女性が帰りに呟いたことが印象的であった。これは一見すると普通の言葉にしか思えないが、後日私はこの言葉の深い意味を噛みしめることになる。

 

同じ団体の方から、また別の日に今度は重度障害者の施設にクラウニングに行くけどどうするか?と打診が来た。私は前回のことを思い出し、迷わず行くと返事したのであった。

 

施設の方が理事長室の一角に間仕切りを置いて更衣室としてくださっており、我々はそこで着替えをして、私は意気揚々と赴いたわけであるが部屋に入るなり言葉を失った。

 

そこには手も足もなく、胴体だけの人が目を開けて横たわっていた。何をしても何の反応もない。おどけたり、歌を歌ったりとにかく何でもやってみたが何の反応もない。側におられる親御さんが申し訳無いと思ったのか、少しばかり反応してくださったのがせめてもの救いであったが、笑顔でおどけていたものの心の中では「辛い、辛い、帰りたい、帰りたい・・・」と1分間に100回以上は叫んでいた。

 

ある方は手足がなく、よだれが垂れて目を開けた状態で個室の小さなベッドに横たわっていた。我々がおどけてみせるがピクリとも反応がない。そして忘れられないのがその隣のご両親と思しき方々の顔であった。二人共かなりの高齢であり、一人はまるで戦前の将校が写真に映る時に真ん中に軍刀を立てるように杖を立てて座っておられたのだが、少しばかりでも反応してくださった他の方々とは違い、彼らは眉一つ動かさない。その表情は固く、顔には深い無数のシワが刻み込まれていてその苦労を物語っていたのだが、何よりも「この子を残して逝くことはできない」という執念で生きておられるような、そんな事が固い顔の表情に現れていた。ご両親がこの齢であれば、今、私の目の前に横たわっているこの方はいったい何歳なのだろうかと考えてしまい辛さが倍増した。

 

前回の小児病棟と打ってかわり、非常に重苦しく辛い1日となった。あれから10年以上経って随分と辛い経験もしたが、この1日の辛さを上回ることはない。「小児病棟の子どもたちは元気だよね」というベテラン女性の言葉が重くのしかかる。

 

帰りの電車の中で車窓をぼんやりと眺めながら、ただ呆然としていたことを記憶している。

 

帰宅して両親に五体満足で産んでくれてありがとうと感謝の言葉を告げた。いきなり何だと驚いていたが、建前でも何でもなく本気であった。

 

精神障害者となった今でも私は幸いなことに模型やペーパークラフトを作ることができる手がある、走ることができる足がある。今年も元日に初日の出を拝むことができたのだが、健康に朝を迎えられることに感謝をして静かに手を合わせた。

 

ここ最近、不幸なニュースが絶えない。物価は昨年の今頃では想像もつかない程に大幅に上昇し、マクドナルドの110円だったハンバーガーがわずか1年足らずで2倍近い170円になってしまうご時世になってしまった。右も左も辛いことばかりであるが、丸くて赤い、風化してしまった赤いスポンジを見るたびに、五体満足で朝を迎えられる時点で幸せなことであると実感するものの喉元過ぎれば何とやら、人間としての悲しい性ですぐに忘れてしまいそうになるが、このことを常々、忘れてはいけないと心に刻むのであった。

 

(おわり)