AIと一緒に本を読む
昔から世界的建築家の安藤忠雄氏の建築や本が好きで、20代の学生の頃には「光の教会」などの代表的建築を必要なものは※予約して見に行ったり、近隣の講演会の情報を見つけるや飛んでいったものだ。
氏の書籍や講演会に久しく触れていなかったが、本棚を整理しているとページの縁が茶色く変色した一冊の本が出てきたので思わず読み出すと、これが面白くて止まらない。
大阪府内にある光の教会の設計図面が表紙カバーとなるこの本は、新品こそ3000円以上するが中古で買ったらしく、注文履歴を見ると随分と前に買ったもので本こそ100円だったが送料の方が高い。
見開きには大きく描かれた氏による二色構成のサインがあり、サイン本を手放したら駄目ではないかと思うのだが、縁があって私の所に来たのだろう。どこからともなく、あの特徴的で軽妙な早口の大阪弁が聞こえてきそうな気さえする。
この本は氏が東大で教授を勤めた時の大学院での講義をまとめたものだが、見たこともない横文字が多く並べられていて都度、調べる必要があって難儀した。
加えて学問の権威と言わんばかりに、意図的に難解にしているとしか思えない非常に読みにくい文章表現、おまけに「、」や「。」といった日本式句読点ではなく、何を血迷ったのか"コンマ"や"ピリオド"という英文で使う記号で区切られているからとにかく、読みにくいことこの上ない。そんなことを、わざわざしなくてもいいのにと何度思ったことだろう。
私の文章も読みにくいから偉そうに言えないが、勢い込んで買ったものの、すぐに諦めて本棚直行になってしまった可能性が高い。
ところが、今の私はこの本が面白いと感じている。
いったい、なぜなのだろうか。
本を買った当時と、現在の明確な差異はいくつかあるが代表的な事は
1.精神年齢と忍耐力が多少は上がり、面白いと感じる事の質とレベルが上がった
2.AIが非常に身近なものになった
ことだろう。特に2.のChatGPTに代表される生成AIの出現は、社会に大きな驚きと変革をもたらした。
ほんの数年前、コロナ禍で日本を代表するスーパーコンピューターを使って行われたのは、「マスクの有無による飛沫の飛散のシミュレーション」だった。
まるで「日本刀の名刀を使ってイワシを捌く」ような事をしていたのが嘘のように、今やスマートフォンのアプリとしても利用できて電波さえ通じれば、ほんの数年前でもあり得なかった驚異的な人工知能を持ち歩ける時代になっている。
本書の最初の項からは、氏がいかに哲学や美術史に対して造詣が深いかが読み取れる。おそらく大学の哲学科のゼミでも十分に論議を戦わせる事ができるだろうとさえ感じるほどだ。
そのため、様々な哲学者や建築史家の名前、価値観が登場する。モダニズムやポストモダン、ハイデガーと実存主義、和辻哲郎と風土、ケネス・フランプトンの批判的地域主義(クリティカル・リージョナリズム)など一見すると私のような門外漢は全くついていけない感覚さえ覚えるほどだ。少しだけ読んで本棚に放り込んでしまった昔の私の行為は責められない。
ところが、以前と違って今はAIが身近にある。
私は手元のスマートフォンのAIアプリを立ち上げ、和辻哲郎の著書「風土」の要約、ケネス・フランプトンの批判的地域主義の説明を頼むと、すぐに明快な回答が得られた。
AIを使う時、私はある種の怖さを感じる。お化け屋敷や心霊スポットで感じる類の怖さではなく、「え?こんなに楽でいいの?」という肩透かしをくらう怖さだ。特に語学に関しては驚異的な精度であり、一次情報である学術論文が英語だろうが中国語だろうが、コピー&ペーストをした後に「訳して」と入力してパソコンならエンターキーを押すだけで、業界の専門用語をしっかりと押さえた、流暢な日本語に瞬時に翻訳されてしまう。
私が大学生の時は、過去10年以上かけて身につけてきた英語力を駆使して必死で文献を読み込んでいたことが信じられないほど呆気なく、今の時代では驚くほどの楽が出来てしまう。
そうなると次に問題になるのは「人間が馬鹿に、駄目になっていくのではないか?」という事だろう。自分の頭を使うことなく、わからないことがあれば考え抜かずに即座にAIに投げてしまう行為は、思考力の低下を招く危険性を大いに秘めている。
しかしながら、AIが身近になって呼吸するように個人がAIを使う時代になることは、もはや避けようがない。
毛嫌いすることなく今から普段の生活で使ってみて、付き合い方を考えていけばよいのではないかと思う。
今回の私のように、今までなら諦めていた難解な本でさえAIを片手に、かつ効率的に読み解ける可能性もあるということだ。
例えば、和辻哲郎の「風土」を読むのに何日を要するだろうと考える。ハイデガーの「存在と時間」も然り。そもそも時間とエネルギーを使った挙げ句、きちんと理解できるかどうかも怪しい。
ここで、最近のZ世代と言われる人たちの特徴とされる「タイパ主義」なる、時間効率を意識する考え方を採用してみる。AIに投げかけて書籍の要約を頼むのだ。その要約を読んで、さらに質問を投げかければかなり理解度が上がることを実感する。
ただし、大学の哲学科の学生だけはこれではいけないと思う。しっかりと原著を自身で読み込み、自分なりの解釈を出す必要があることは今も昔も変わらず、決してAIに全部任せてよいわけではない。私が今読んでいる氏の書籍でさえAIに読み込ませて「要約して」と言えば瞬時に要約されるのだろうが、これでは元も子もない。
私の場合は哲学が専門でもないからAIを利用して瞬く間に和辻哲郎、ハイデガーなど文中に登場する哲学者の考え方を完全でなくともある程度掴み、なおかつモダニズムやケネス・フランプトンの批判的地域主義など美術史・建築史に関する考え方もまた同様に、ある程度把握した上で読み進めていくと
面白いではないか!
今まで気にはなっていたが、「なるほど、そういうことだったのか!」と腑に落ちる点がいくつもあった。一見バラバラに見えるものまで繋がって見えてきて、それだけでなく私自身の経験とも関連して共感できる点もあって独特の面白さが見えてきた。
今までなら理解できずに諦めていたか、その都度、膨大な時間と労力を投じて背景的知識を頭に入れる必要があったことが、パソコンやスマートフォンがあれば一瞬で終わってしまう。その大いに節約した時間をもって私は前に進むことができるのだ。
それと同時に恥ずかしさも感じた。氏の建築が好きだと言いながら背景にある哲学や美術史も知らずにいたわけであり、それでは何も理解していないのと同じだとも思った。
ただし、これは「AIの出した回答が正しい」という前提で成り立っていることを忘れてはいけない。映画「ターミネーター3」でアーノルド・シュワルツェネッガー演じるターミネーターが嘘をついた事があった。絶対に嘘をつかないはずだったが、改良?されて嘘をつけるようになっていた。何とも言えない皮肉の効いたシーンが印象的でよく覚えているが、AIが嘘をつかないという保証はない。人間のように手を抜いてくる可能性だってあり得る。
安藤忠雄氏は「知的体力」という言葉を、講演でよく使われていた事を覚えている。知的体力は時代によって解釈は変わっていくだろうが、AIを当たり前のように使う今の時代にあっては
「難解な書物を読む際に、諦めずにAIの力を借りてでも挑む」
という行為は、知的体力を養う上で大切になると感じている。AIがデタラメなことをすれば読んでいる途中で辻褄が合わなくなり、矛盾点にすぐに気付くことができるだろう。AIにその矛盾を突きつければ、また新たな視点が得られるに違いない。
私が小学生のときにはインターネットは今のように各家庭に存在しなかった。専門的な情報は本や専門誌、新聞といった紙媒体、一般的なものはテレビやラジオと言ったマスメディアが一方向的に流すものしかなかった。
例えば私が小学生の頃、ペットボトルロケットに夢中になっていた時だったが二段式ロケットを作ろうと目論んだ。資料は本しかなく、それも大人向けの本だった。読めない漢字や大学レベルの理屈はすっ飛ばし、理解できる部分から可能な限り理解しようと努めた。通信販売も無かったから、部品は全て近所のホームセンターで買いだしてきて、無ければ何が代用できるか徹底的に考えた。結果として、あまり飛びこそしなかったが、二段式ロケットを完成させて小学校の校庭で飛ばした事は大きな自信になっている。
専門的な情報源の大半が書籍だった私の小学生時代とは打って変わって、インターネットで手軽に情報を得られる現代社会では多くの場合、一目みて理解が難しそうな情報からは目を背けて、自分がすぐに理解できる情報だけを無意識のうちに選んでいると思う。
理解力は加齢による前頭葉の機能低下に伴って低下する。そうして、情報を得て理解する能力が落ちることはあっても上がらないことは容易に想像できる。インターネットで手軽に情報を得る事に慣れてしまっている我々は、知らない内に知的体力を下げる行動を日々、取っていることになる。
ここで、書籍から情報を得る事と知的体力の関係性を見てみたい。
「こども本の森 中之島」という子供向け図書館が、2020年に大阪市の中之島で開館した。設計は安藤忠雄氏であり、建設費や維持費などは氏が企業経営者らに掛け合って集めたというから凄い。瀬戸内海に面した香川県では氏が寄贈した、やはり子供向けの図書館船まで存在する事からも、「子供のための図書館」を晩年になって作り始めたことは、氏の主張する「知的体力」と大いに関係があると推察する。
書籍、と言っても別に紙でも電子書籍でも同じだと私は思う。ただし、「ページをめくる」という感覚はタブレットでは絶対に感じられないものであるし、絵や図表の多い書籍は断然、紙の書籍の方が読みやすい。図書館や町の本屋の大きな特徴である「目的の本の、周囲の関連書籍が目に入りやすい」ことも紙の書籍のメリットとして挙げられるだろう。今回は電子書籍の否定ではなく、あくまで「書籍から情報を得る事」に注目したい。
本格的な内容の書籍は趣味の物でも情け容赦ない。当然のことだが、読み手のレベルに合わせてくれない。難解な書籍にいきなりぶつかれば、たちまち弾かれてくじけてしまう事は多くの人が経験済みと想像する。
そうとは言っても全てが全て理解できないわけではない。自分がやりたいことの為に、小学生の頃の私のように分かるところから何とか読み解こうと挑み、それなりに理解できてステップアップした感覚があると気分が高揚する。
この「挑む」姿勢こそが、数ある知的体力を向上させる方法の一つではないだろうか。
加えて、今の時代に生きる我々にはAIという心強い味方がいる。完全に任せて依存するのではなく、あくまでお互いにブラッシュアップしていく関係性をもって接する。AIとの向き合い方を間違えない限り、心強い相棒になってくれると思う。
私が小学生の時に二段式ロケットを作った時、身近にAIがあればどうなっていただろうかと考えた。同じ本には三角法を用いて到達高度を割り出す計算式が掲載されていたが、天才でも何でもない小学生の私には全く理解できず、読み飛ばしてしまった。ここでAIに到達高度を求めるには、どういう測定器具を使えばよいか尋ねて工夫を重ねて制作・測定を行い、普通の小学生でも理解できるように計算式の説明、数値の代入や複雑な計算を頼めば、何かが変わっていたかもしれない。
加えて要求されるのは「質問力」だ。身近に利用できる生成AIは多少の誤字脱字以外は忖度など出来ないから、自分が質問したこと以上の回答が得られることはまずあり得ない。得られた回答の日本語の論点や文脈等が理路整然として正しいかどうか判断するという意味でも、基礎となる日本語力は大切であり、国語の授業や教育はますます重要になるだろう。
難解に思える書物であってもAIの力を借りることで、これなら理解できるぞという部分が少しずつ増えていく。難攻不落の牙城に思えたものでも、ここなら攻められそうだという場所が次々に見つかり、攻略の糸口を得て実際に少しずつ攻略していく。
全く分からなかったものが少しずつ分かるようになり、バラバラの点に過ぎなかったものが次第に繋がってゆき、やがて腑に落ちる感覚は体験した人にしか分かり得ないものだと思う。
一番駄目なのは、AIに頼るのはよくないと言って自力だけで挑み、駄目だったら諦めてしまうことだろう。結果として能力と同等かそれ以下の事ばかり行うようになり、「知的体力」は低下の一途を辿るだけだ。
スポーツに長年打ち込んでいる知人の話を聞いていると、やはり格上というか、自分より強い相手とも定期的に練習や試合をしなければ、今よりも強くなることは難しいということだった。
AIと上手に向き合い、今までなら諦めていた少し難解な事に挑む事が面白いと感じる限り、その人の知的体力が低下することはないと、他ならぬ私自身を叱咤激励したい。
(おわり)
※公式ホームページによると現在は、光の教会の見学は全面的にできないとのことです。ご多忙の中であっても、当時20代の多感な大学生の私に見学を承諾して頂いた、当時の教会関係者の皆様に厚く御礼を申し上げます。
<あまり参考にならない関連記事>
hattatsu-yakuzaishi.hatenablog.com
七味と興ず
※文字数や繰り返す事により、しつこさを感じる関係からお客さんではなく客、店員さんではなく店員、と称しています。
とある場所を訪れた時、無性に麺類が食べたくなって当地の名物料理の店に足を運んだ。「名物にうまいものなし」とは言うが、こういう感覚は大切にせねばならない。店員に言われて驚いたのが
「当店では七味唐辛子を自分で作るか、既に出来上がったものかをお選び頂けますが、どうされますか?」という前置きだ。
初めての経験だった。七味唐辛子にこだわる店は数多あれど、「客に七味唐辛子を作らせる店」など聞いたことがない。
迷うこと無く「自分で作ります。」と回答すると、予め小さなすり鉢に入った胡麻と、唐辛子を含めた6種類の薬味が小瓶に入った状態で提供された。
まずイメージしたのが、自分が頼んだ商品の具材や汁の味だ。豚肉には山椒が合うから必要だろうな、麻の実は大きいから要らないなと想像を膨らませて、それぞれの薬味の香りや味を確認しながら各々の調合比率を決めていく。
忘れてはならないのが、その日の体調だ。胃にあまり負担をかけたくないから唐辛子は控えめにしたい、漢方生薬でも胃薬として使われる上に香りも良いから陳皮は多めにしようと、具材や汁に加えてその時の体調も加味したオリジナル七味が出来上がった。
乾麺から茹で上げているのだろうか、提供まで15分近く待ちはしたが全く気にはならず、むしろ楽しく待ち時間を有効活用することができた。
人気店らしく私が入店した際には先客が一人だけだったのが、ものの数分で満席になった上に外には行列まで出来上がっていた。私以外の客にも店員は同様に声をかけていくので、他の客はどういう反応をするのか気になって聞き耳を立てていたのだが、なんとその場にいた全員が
「既に出来上がったもの」
を頼んでいた。印象に残っているのは皆一様に、悩むことなく既製品を選んでいたことだった。
通い慣れており、あまり味の変化は無いから既製品でよいという感覚だったのかもしれない。疲れていたり、乗り気でなければ空腹時に七味を自分でブレンドするなど面倒くさくてやりたく無くなる気持ちもわからないでもない。
ただ、せっかく来てお金を払うのなら、遊ぶ気持ちでやってみればいいのにと思いつつ、私は店を後にした。
帰りがてらに、ふと思い出したことがあった。
何度も記事内に登場する、私が勝手に師と称するO先生がよく言われているのが
「草を楽しむ、と書いて薬と読む」
ということだが、七味唐辛子を構成する陳皮や胡麻、山椒は食品でありながら、同時に漢方薬にも含まれる立派な「薬」でもある。現にO先生は七味唐辛子を作るワークショップも開催されており、人気の講座と伝え聞く。
そのワークショップを思いついたきっかけというのが、別の用件で訪れた際に地元の方に「当地では、各家庭で七味唐辛子を作る文化がある。」という話を偶然、聞いたからだという。
薬研で薬味を粉にし、各人の好みや体質を考えてオリジナルのものを仕上げていく行為は、まさに「製薬」そのものと言ってよいだろう。
何も七つにこだわることはない。唐辛子の産地を変えたり焙煎したりして数種類の唐辛子を使うこともできるし、山椒や麻の実といった定番のみならず、食品でありながら医療用漢方薬にも使用されている生姜や紫蘇を使ったり足したりしても面白かろうと、七味唐辛子は想像が全く尽きない興味深さと可能性を秘めている。
私が好きなあるラーメン屋では七味唐辛子はテーブル上に無く、必要に応じて店員に「『くすり』を一つください」と頼むと、薬包紙に包んだ七味唐辛子が手渡される仕組みなのだが、その薬包紙の折り方は昔ながらの薬剤師が折る薬包紙の折り方そのもので、初めて頼んだ時は心底驚いた。
在学中に「停電時や災害時を考慮して」という理由から、年配の薬剤師から薬包紙の折り方を教わっていたので気づくことができたが、七味唐辛子に含まれるものは「薬味」と書くだけに、やはり昔は薬としての感覚も少なからずあったものと想像する。
些細なことから楽しみを見出すことは、生きていく上で大切なことに間違いない。薬という一見難しくて何なら怖そうに見える世界でさえ、七味唐辛子のように身近なものを通して純粋に楽しむと薬がより身近になるような、実はそこまで遠く難しく、まして怖い存在でもないように思えてきて面白いと感じるのは、私だけではないはずだ。
薬剤師が「薬の専門家」だとすれば、師の言葉を借りると薬剤師は「草を楽しむ専門家」でもあると言えよう。
「客に七味を作らせる店」は自宅からは非常に遠く、次にいつ行けるかどうか全くわからない。
しかしながら、期せずして少なからず「草を楽しむ」ことができたのではないかと考えると、多少なりとも「薬剤師としての責務」は果たせたものと満足している。
(おわり)
<参考記事:師に関して>
hattatsu-yakuzaishi.hatenablog.com
hattatsu-yakuzaishi.hatenablog.com
子キツネは弧を描く
昨年のことだったが、草むらで野生のキツネの子供たちが遊ぶ姿を偶然、目撃した。
ピョーンピョーンと飛び跳ねながら、輪を描くようにくるくる回って遊ぶ姿は愛くるしく、いたく感動した。そのすぐ近くで母キツネが心配そうに見守っていたのも印象的だった。キツネはその大きな耳で地中や雪中のネズミの動きを確認し、一旦飛び上がってから先の大戦中の急降下爆撃のように地面に突っ込んで仕留めるようなので、子供の頃から遊ぶことによって狩りの動きを身に着けているのだろう。
この姿を見て思い出すものがいくつかあるが、まずは日本画。山口華楊の「幻化」という作品では月明かりの下で私が見たものと同様に、キツネが輪を描いて飛び跳ねて遊ぶ光景が描かれている。
あとはアニメだが「まんが日本昔ばなし」や「ゲゲゲの鬼太郎」でも同じ光景が描かれていたことを覚えている。
私が野生のキツネを初めて目撃したのは、北海道に住んでいた時だった。

キタキツネは往々にして川沿いで見かけた。ある時、川沿いをランニングしているとキツネが飄々と歩いているではないか。夏は毛が抜けて犬によく似ているが、太く長い尾を地面と平行にして走る点が犬と大きく異なるため容易に鑑別できる。当時は20代で体力、好奇心ともに旺盛だった私はキタキツネを見かける度に全力で走って追いかけ回したが、全く敵わなかった。
キツネは今では禁止されているが、漢方生薬として「舌」を使用していた時代があった。効能効果は失念したが、取引の際には犬との鑑別のために牙のついた顎ごと取引をしていたらしく、鋭い牙の並ぶ細長い顎の骨にくっついた「キツネの舌」を見た時は心底驚いた。
今回は医療や漢方の話ではないのでこの辺で漢方関連の話は終えるが、私が上述のじゃれ合う子キツネを見たときに真っ先に浮かんだのは、まんが日本昔ばなしやゲゲゲの鬼太郎、山口華楊の日本画だが、これは作品を描いた本人たちが実際にその光景を見たことがあるからこそ描けるものだと実感した。
キツネの鳴き声にしても然りで、キツネはコンコンと鳴くと聞いていたが実際に聞いてみると、「ゥワァンッ!」と甲高い犬のような、しかし犬とは明らかに違う鳴き声だった。複層ガラスを貫く近所迷惑そのものの鳴き声で、夜中に鳴かれたら必ず目が覚めるほどであり、一体どこでコンコンになってしまったのか全くもって謎だ。
キツネは昔は身近な存在だったと祖父母らの世代は語る。鬼太郎や日本昔ばなしの作画を担当した人や山口華楊が子供の頃には当たり前のように見られた光景に違いない。土地開発が進み、キツネが生息できる環境が限られるようになり、いつの頃からか北海道や地方部を除いて当たり前のように見られることは無くなってしまった。
自然の光景を絵や漫画等に描く際に最も重要なのは、実際に見たことがあるかどうかであることは間違いない。例えば今の時代にキツネが飛び回って遊ぶ光景を描くとして、実際にキツネが遊ぶ光景を見たことがあるのか、それとも山口華楊の幻化のような作品を見て想像で描いているのかでは随分とその出来と作品へのエネルギーの乗り方が異なってくるのではなかろうか。
描くだけでなく、何をするにしても実際に見たり触れたことがあれば大きなアドバンテージになることは間違いない。
新型コロナウイルス感染症蔓延の頃から、Youtube動画が情報源になった事は社会に大きな変革をもたらした。それまでのYoutubeといえば一部のスターYoutuberによる娯楽的な内容か、出版社がDVD付きの本を出版した際のショート版の掲載、そして違法動画の温床であり、お世辞にも情報源とは言い難いものが多かった。それがコロナ禍による外出自粛の影響で一転、無料とは思えないレベルの高い動画を投稿する人や企業が増えて、手軽にどこでも高レベルの情報を動画として視聴できるようになった。
実際に現地に出向かなくても、Youtubeで大自然の風景や仕事等の動き、プロの演奏や生き物の鳴き声等を見たり聴いたりすることが比較的容易になったということだが、やはり実物を目の当たりにすると実感が全然違うことに驚く。
4K画質の高画質・高音質の動画でさえ、誰かの機器を通して録画されて編集されている。たとえそれが大自然のみを写したものであっても、それはあくまで「誰かの作品」であり「実物」ではない。
AIによるフェイク動画の質も上がってきている。前回の記事にも関連するが、情報が溢れる現代社会だからこそ、あえて「実物」に触れる事が大切だと思う。
自分の目で見て触れた実物だけが、本物であり真実であることは今も昔も変わらない。
(おわり)
<参考記事>hattatsu-yakuzaishi.hatenablog.com
