発達障害もち薬剤師の随想録

発達障害を併発する薬剤師である筆者が、ADHD気質からの多くの経験から思う事をASD気質で書くブログです

英語を話せるか?と聞かれて、ジャスト ア リトルと答える

中学生のときの英語の教科書には"Do you speak English?"と聞かれて、

"Just a little"と答えるシーンがあった。

 

英語圏の人並に=ネイティブ並に話せませんが、ある程度なら話せますがゆっくり喋ってください」

 

ということを伝えているようである。ジャストアリトルを抜いてYes!と断言するには外国人並に話せなければいけないのだという日本人らしい謙虚さの現れでもある。

 

その後当たり前のように使っていて、いつも疑問に思っていたことがあった。

 

「ジャスト ア リトルとわざわざ言っているのに、話すスピードがめちゃくちゃ速いのはなぜだ?」と。

 

ジャスト ア リトルと最初に言っているのに、なぜこんなに容赦ないのかとプンプン怒っていた。こういう人は少なくないだろうと感じる。

 

しかし、これはまさに日本の英語教育の問題点とも言えるような例であると思う。

 

外国人からすれば、聞いているのは「話せるか、話せないのか」の二択である。

 

一方、日本人はジャストアリトルという言葉に様々な思いを込めまくっている。ジャストアリトルには

 

1.話せるには話せるが少ししか話せない

2.だから、ゆっくり話してくれ

3.以上のような様々な思いを汲み取ってくれ

 

という諸々の意思がこの「ジャスト ア リトル」というたった一文に込められているのだ。

 

ここ数年で急に表社会に出てきた「忖度」という言葉がまさに当てはまるだろう。察してほしいという日本人ならでは、一番肝心なところでテレパシーを使うという文化である。この「肝心な時にテレパシー文化」はしばしば、特に男女間で大きな問題に発展するきっかけになっている気さえする。

 

外国人からすれば、「話せるか、話せないのか」の二択を迫っているだけでジャストアリトルなど正直どうでもよいのである。

 

「イエス」と答えた瞬間この人は話せるものだ判断され、いつものスピードで話してくるものだから日本人は混乱してしまったり、「ソーリー、ノォ〜」と逃げるように去ってしまう。

 

これに気付いた時からジャストアリトルと答えるのをやめた。早口であったり、オーストラリアやインドなど訛りが強いときは、ゆっくり喋ってくれとかもう一回言ってくれなど要望を都度伝えることにした。インド人などRをルと巻き舌で発音してくるので、最初は英語と認識できなかったりするのだが。

 

ジャストアリトルと答えることを覚えた元凶を遡ると、間違いなく英語の教科書に突き当たる。

 

他にもこの教科書には印象的なエピソードがあり、

 

新任の外国人女性の先生が赴任してくるので駅までその先生を迎えにいくことにした。

 

まあ、ここまでは良いのだがこの先が問題である。どうやって先生を探すのか今ならSNSなどを駆使すればよいのだろうが、インターネットは民間にほとんど普及していない、最新技術のISDNはじめちゃんの宣伝がCMで流れて通信速度は60kbps程度という信じられない遅さの時代の教科書である。

 

ちなみにISDNは2024年にサービス終了とのことで、まだ終了していなかったのかという驚きの方が大きい。北陸新幹線が長野まで開業したのがちょうどこのCMをやっていた頃の1997年、その北陸新幹線敦賀-金沢間開業と同時期に終了とは鉄道が好きな者として感慨深いものがある。

 

留学先の空港で出迎えるホストファミリーのように名前を大きく書いた紙を掲げるのが一番無難な方法だと思うが、この新任の女性教師を迎えにいった学生たちがとった行動が

 

"Excuse me, Are you Ms.Green?" 

"No I'm not" 

"I'm sorry..."

 

なんと駅の改札から出てきた外国人女性に対して片っ端から「あなたは、グリーン先生ですか?」と話しかけまくるという、秘技当たって砕けろ体当たり突撃戦法に打って出たのである。

 

違っていたらきちんと謝るところは、いかにも律儀な日本人らしくてよい。

 

ちなみにMs.は未婚の女性であり、既婚者だったらどうするのかという配慮はない。

 

グリーン先生がアジア系だったらどうするのかという問題はなぜかクリアしているらしい。

 

当たっては砕けまくること数人目にしてついに

 

"Yes I am!"と突撃戦法はめでたく功を奏したのであった。

 

昨今の教育事情を聞いていると英語教育を早い時期から行う傾向にあるらしいが、こんな内容の教科書では元も子もないと思うのである。将来的にジャストアリトル頻用は間違いなく、例の突撃戦法まで繰り出す学生もいるかもしれない。

 

日本人が英語を話せないのは文法重視の教育のせいだという意見もあるが、文法以前の問題であると思う。

 

根底にあるのは「日本人の常識を外国人にも通用させようとしている」ことにあると感じる。

 

日本人と外国人の文化や考え方の違いなど、海外に行けば日本の常識は海外では全く通用しないという最も基本的なことを教科書に含めてほしい。もっともこればかりは体験するのが一番かもしれないが。

 

日本人なら誰しもが感動するが、外国人の全員が全員「おもてなし」に感動するとは思えない。日本のおもてなしはどちらかというと目に見えないところで気を配り大々的にアピールをしない「陰徳」の傾向が強く、よほどの日本文化マニア以外の、主張をしなければ一切伝わらない一般的な外国人は全く気付いていないと考えたほうがよいだろう。

 

郷に入りては郷に従えということわざにもあるように、自分たちの考え方が当たり前ではないことを知り、多種多様な価値観の存在を認める教育も併せて行っていく必要があると感じる。

 

前述のように外国人に話しかけられた時にジャストアリトルを使う日本人は少なくないと思うが、謙虚さの要素もあるのだろうがやはり初期に受けた英語の教科書の影響を大きく受けていることは間違いなく、精神が純粋な時期の教育の責任は重大であることを思い知らされる。

 

(おわり)