発達障害もち薬剤師の随想録

発達障害を併発する薬剤師である筆者が、ADHD気質からの多くの経験から思う事をASD気質で書くブログです

自転車ポデローサ号

自転車を手入れしない人を見ると腹が立つほどに小学生の頃から自転車は自分で修理してきた。今は店のプロに任せるようになったが、大学生の頃まではパンクすれば洗面器に水を張ってチューブに軽く空気を入れて浸してプクプクと泡が出る箇所を探し当て、ゴムのりを塗ってパッチを貼って叩いて直すことを普通にやっていたし、その名残で様々な修理セットが今でも道具入れに残っている。

 

毎週末にはロードバイクに乗って遠出、というタイプではないしロードバイクを所有したこともない。しかし、どうにも定期的な注油と空気入れや調整をやらないと気がすまない性格的な問題であると思う。

 

小学生の頃にペットボトルロケット打ち上げ用に購入し、未だに20年以上使っている空気入れでタイヤに空気を入れて圧の確認のためにタイヤを押して触っていると、ふと北海道に住んでいた時に乗っていた自転車を思い出した。

 

大学を卒業して初めて実家を出て一人暮らしを始めたのが、海を隔てて気候帯も変わる北海道であった。

 

3月にして前が見えないほどの命に関わるような吹雪に遭い、4月は茶色一色で緑はなく内地の12月より寒くて凍え、ゴールデンウィークに氷点下になり吹雪いたかと思えば、しばらくして一帯は一気に緑に染まって見たこともない綺麗な花が短い夏に命を咲かさんとばかりに一斉に開花していた。

 

本当に何もかもが、北海道や離島の人が使う本州本土を意味する言葉「内地」とは全く違っていた。

 

違っていたのは気候や植生だけではない。自転車も違っていた。

 

それもロードバイクのような本格的なものではない、通勤通学に使うようなホームセンターで当時なら2万円でお釣りが来た(今なら3万円以上はするだろう)シティサイクルである。

 

タイヤの厚さが5mmあることがウリであり、そのせいで漕ぐと滅茶苦茶ペダルが重い。自転車界の重戦車のような感覚であったが、すぐに納得した。

 

北海道の路面は冬場は基本的に凍結しているので滑り止めとして砂や砂利を大量に撒く。そのせいで、道路は歩道を含めて小石だらけであると想像すればわかりやすい。5月にはロードスイーパーが来て回収していくものの、それでも残る小石や激しい気温差のせいで荒れた路面では内地向けの薄いタイヤなどたちまちのうちにパンクしてしまうことは間違いなく、わが重戦車自転車は小石をものともせずバチバチと弾き飛ばしながら頼もしく快進することができた。

 

私はこの自転車に名前をつけることにした。

 

ポデローサ

 

分かる人は分かる名前であるが、これはキューバの革命家エルネスト・チェ・ゲバラが若い医学生の頃に出身のアルゼンチンを出発点に南米をボロボロのバイクで友人と旅をしたらしいのだが、その時に乗っていたボロボロのバイクの名前がポデローサであった。ちなみにこの時の若き青年チェ・ゲバラの旅の様子は「モーターサイクル・ダイアリーズ」という映画になっており、ポデローサもこの映画を見て知っていたわけである。

 

チェ・ゲバラが好きで、まずは形から入ろうとチェ・ゲバラが好きだったというマテ茶をひたすら不眠になるほど飲みまくっていたこともある。

 

会社の専務が自転車好きで、なんでも社員の自転車のタイヤを時折触っては空気圧をチェックしていたらしい。管理能力の指標にしていたらしいが、私はカゴの荷物が段差を乗り越える時の衝撃で飛ばないように前タイヤの空気圧を意図的に低くしていたので、どう評価されたかはわからない。

 

その専務に会社の車をガソリン代さえ払ってくれたら自由に使っていいよと言われたので、お言葉に甘えまくった私はポデローサを積んで北海道の色んな場所を巡った。3ヶ月で2000km以上は旅したと思う。

 

美瑛の丘を走った時は大変だった。何せ上り坂が地獄で心臓破りの激坂であったので苦労した。下り坂でゆったり景色を拝みたいところなのに次に待ち構える上り坂のためにうんと加速しないといけないのでおちおち景色も見られず、ひたすらゼーゼーハーハーしていた記憶しかない。

 

礼文島に持ち込んだ時も難儀した。島の東側は良い。アザラシが腐るほどいて岩の上で寝そべっていたり、プカプカ浮かんでこちらを眺めていたりしてのんびりとしている。彼らは人間がどうやっても一瞬で襲うことができない距離を見切っているので、実に余裕綽々としていた。

 

問題は西側であった。島の北部の東から西へ切り替わる曲がり角で暴風に遭遇し、著名な革命家のバイクと同名のわが愛車はあれよあれよと言う間に急減速し倒されてしまった。台風の強風域並の風が常に吹き荒れる中では、とてもではないが自転車には乗ることができなかった。仕方がないので適当な場所を探して停めて、歩いて行った記憶がある。

 

風景写真のために巡った時は車に寝袋と枕を積み込み、夜の寝る間だけポデローサを外に出していた。

 

北海道を去る時、ふとポデローサのタイヤを見るとかなりすり減っていた。北海道仕様5mmのタイヤ厚がなければとっくにパンクしていただろうことを思うと感慨深い。片道9kmの通勤に加えて北海道各地に連れ回したので無理もない。会社に寄付することにして、お世話になった人に引き取ってもらったのが今生の別れとなった。

 

道具を大切にする経営者の会社だったので大切に使ってもらったと思うが、あれから10年近く経っているのでもう廃車になっていることだろう。

 

若き日のチェ・ゲバラが、ポデローサに乗った旅の途中でハンセン病の療養所に寄ってボランティアをした時に大きな衝撃を受けた様子が映画には描かれている。その後の革命家人生にも大きな影響を及ぼしたことは間違いない。

 

我が愛車であったポデローサと共に巡った第二の故郷北海道だけでなく、小笠原諸島に持って行ったシティサイクル「ポデローサ2号」で島内を巡り、出会った人たちのおかげでこれもまた私に多くの影響を与えてくれた。父島から帰って自転車屋に持ち込むと、急な上り坂を登りまくったせいか金属製のチェーンが2cmも伸びていたことを告げられた。

 

となると今、タイヤの圧を確認している自転車は必然的にポデローサ3号となる。

 

私の旅はまだまだ続いているようだ。

 

(おわり)