発達障害もち薬剤師の随想録

発達障害を併発する薬剤師である筆者が、ADHD気質からの多くの経験から思う事をASD気質で書くブログです

カメラは何を写す?

知人の写真展が開催されるというので、遠路はるばる列車に揺られること数時間かけて会場のある地へと赴いた。以前は旅など呼吸のように当たり前にしていたが、コロナ禍で一変してしまった。かつて乗り慣れていたはずの路線もどこか新鮮に感じて気分が高揚すると同時に、このご時世であるから医療の第一線から既に身を引いている身ではあるが一抹の不安も当然ある。

 

10年近く前に住み込みで働くために数ヶ月ほど滞在した場所であるが、不思議なことに今でも縁があり、あの頃は私を含めて皆20代の独身でそれこそ毎晩、修学旅行の夜のように寮でワイワイとやっていたことを懐かしく思い出していた。

 

私は生来引きこもりがちであるが、彼らとはなぜか馬が合った。絶対音感があったりピアノや三味線を弾いたり、ビリー・ジョエルのオネスティやピアノマン、サイモン&ガーファンクルのサウンド・オブ・サイレンス(しかも、私の好きな伴奏がエレキではなくアコースティックギターバージョン!)といった古い曲にも20代にして精通していたりと教養もかなりあったので珍しく打ち解けることができたのだ。

 

寮、と言っても決して美しいものではなかった。高度経済成長期かそれ以前の相当なまでに古い建築らしく、トイレの床など水浸しでふやけていていつ抜けてもおかしくない状況であったし、古いソファを捨てようとして裏返せば小さなネズミが飛び出してきて部屋中を走り回る。どこかしらから拾い集めてきた草や枝、毛糸などを使った芸術的な巣をソファ裏にこしらえていたようで、カヤネズミという可愛らしいネズミであった。

 

他にも大量のカマドウマが至る所で飛び回っていた。脚が太くてジャンプ力が強く、あの独特のまだら模様が、害は無いのだろうけれども気味悪さをいっそう増幅させてしまっている。寝ようとすれば掛け布団の上でバスンバスンと跳ね回り、一番風呂に入ろうと思えば2、3匹が先に入浴したらしく浮いている。一番風呂なのか、カマドウマの出し汁なのかわからない風呂に入って日々の疲れを癒やしたものである。

 

エゾハルゼミのヒグラシに似て非なる鳴き声の響き渡る、わりと標高の高い自然の豊かなところであるが、あれからほとんど何も変わっていないことに驚く。変わったことと言えばかつて私たちが滞在し、毎晩酒盛りをしていたくだんの寮は老朽化により閉鎖され、静かに朽ち果て自然に還ることを待たれている状況でありどこか寂しい気持ちもある。

 

写真展の会場もかつて何度も入ったことがある場所であるが、これも何も変わっていない。最後に訪れたのはつい最近のように感じられ、本当に最後に来たのが6年前なのかというほどに何も変わっていなかった。

 

額装されて展示されている写真を見て驚いた。もう10年近くなるというのに初めて会った時と何も変わっていないではないか。これは決して悪い意味ではなく、良い意味である。

 

縁がある人は趣味や嗜好も近いことが多く、彼もやはり写真が好きであった。初めて会った時に彼が撮ったという写真を見せてもらった時、その純粋な心がそのまま写真に写し出されているような気がしたのである。

 

写真を撮る人は多くの人がそうであると思うが、最初は感動したものを素直に撮る。しかし、時間が経つにつれてSNSなどでチヤホヤされるとウケのいい写真を「狙う」ようになる。邪心がどこからか顔を出してきて頭で事前に考えたウケる構図の、それこそ狙ったような写真を撮りに行くようになり、最初の頃の純粋な思いなどどこかへ消えてしまうといった具合である。無論、私も例外ではない。

 

写真を見れば、どういう心境やシチュエーションで撮ったか一目瞭然だ。感動して即興で撮ったものか事前に頭で構図を考えて狙って撮ったものか、はたまた手持ちか三脚使用かまで写真を見ればひと目でわかってしまう。

 

彼が凄いと思ったのはこの点である。

 

写真からその邪心が全く感じられず、素直に感動して撮ったものだとすぐにわかる。10年近い歳月を経てもなお邪心の無い純粋な写真を見て心底驚いた。

 

私がかつて北海道に住んでいた時、たまたま会社の人に貸してもらったS5Proという文字通りプロ向けのカメラと内地にはない豊かな大自然がきっかけで風景写真にのめり込んだ。

 

毎日カメラを持ち回り、その辺の河原に自生している内地では見たこともない花に心を奪われ、這いつくばって肘に小石がめり込んでいることも空腹も忘れて夢中でシャッターを切っていた。

 

当時の写真は今でも全て保存してあるが、特に初期のものは手ブレが酷かったりそもそもピントが甘かったりしていて写真としては微妙なものが多い。しかし、撮り手が感動して夢中で撮ったという状況はしっかり伝わってくるので、不完全ながらもどこか心があたたまる気持ちになるから不思議である。

 

今回はるばる見に行った展示写真も、北海道在住時代の私の不完全な写真も目の前の光景に対して素直に感動して撮ったものであるが、そこに写っているのは他でもない撮り手の「内面」そのものであると改めて気付かされた。

 

素直に感動するという心の純粋さを、カメラというツールを使って表現しているのである。

 

当然その逆もまた然り、となる。

 

カメラは撮り手の内面を写し出す、あるいは描き出す道具にすぎず、それ以上でもそれ以下でもない。

 

かつて全国各地に持参した、と言うよりも「連れて行ってもらった」相棒のD800を先日、コロナ禍でしばらく行えていなかった定期メンテナンスを頼もうとニコンプラザに持参すると、「お客様の機種はサポートを打ち切っておりまして、イメージセンサークリーニングしかできません」と言われてしまった。購入してから10年近くも経つからそれは仕方ないかもしれないが、心境は複雑だった。

 

一眼レフカメラで写真を撮らなくなってから久しいがカメラ自体は壊れておらず、まだまだ独特の勢いのある元気なシャッター音を出して撮影ができるというのに。

 

寂しい気持ちとともに、私の内面を写し出し続けてくれた相棒をこれからも大事にしようという気持ちも湧いてきたのであった。

 

(おわり)

 

イメージセンサー:写真を写し出すためのデジカメの心臓部。基本的に絶対にいじってはいけない場所。このセンサーの大きさによってフルサイズやAPS-Cマイクロフォーサーズなど規格が変わり、画質にも影響する。