発達障害もち薬剤師の随想録

発達障害を併発する薬剤師である筆者が、ADHD気質からの多くの経験から思う事をASD気質で書くブログです

胡蝶の夢

二年前に写真展を開催した知人が再び写真展を行うというので各種列車の切符を取り一路、会場のある地へと足を運んだ。

 

二年、とは長くもあり短くもある絶妙な期間である。子供の頃の二年といえば長いことこの上なかったが、大人になった今では束になって飛んでいく。しかし、社会の中でこの二年で変わったことを挙げると能登半島地震、物価高による大幅な値上げ、みどりの窓口の大量廃止、何とかハラスメントの厳罰化、ガザ地区の問題などキリがないほどに確実に変化している期間でもある。会場の最寄り駅に降り立った時、この地に来るのは何度目だろうか何年ぶりだろうかと毎回のように頭を巡るが、ほとんどの風景は何も変わっていないことにいつも驚かされる。

 

会場内に入るとギャラリーは私一人だったので貸切状態で作品を堪能することができた。ほとんどの風景が変わっていないこの地で、大きく変わっていたのは知人の写真だった。いかんせん始発から何時間も列車に揺られたせいで眠気が凄かったが、そんなものはどこかへ消し飛んでしまうほどに大いに感動し、知人にこの感動を何とか言語化して伝えた。

 

一連のやりとりの中で知人は面白いことを言った。無論、ギャグやダジャレの類ではない。

 

「写真を見て感動したり変わったと感じるのは自分の写真によるものではなく、Kさんの心なんじゃないでしょうか」

 

心にストンと入る感覚、「腑に落ちる」という言葉が相応しい瞬間だった。写真はあくまで中立である。同じ写真を見てもある人は素通りするが、私は感動する。この違いは写真の良し悪しではなく、私の心の在り方によるものなのだと。

 

知人とのやりとりの中で、ふと思い出した言葉がある。

 

胡蝶の夢

 

「こちょうのゆめ」と読むこの言葉は司馬遼太郎氏の小説のタイトルにもなっているが、謂れはその昔、中国の荘子という人が蝶になって舞う夢を見たときのこと。彼が普通の人と違うのは「私が蝶になった夢を見たのか、蝶が私になった夢を見ているのか」という解釈を出した点にある。荘子によると、どちらが正しいなどということはどうでもよい。そのような些末なことに惑わされずにどちらも否定すること無く受け入れて生きていけばよいという教えのようだが、学生の時にこの故事を知ったもののイマイチ意味を理解できなかった記憶がある。

 

大学生から弓道を始めた時に、明治大正・戦前の昭和期に弓聖と言われた阿波研造先生の事を知った。周囲に街灯もない大正期の文字通り真っ暗闇の夜に、線香一本だけを的の前に立てて一手二本の矢を射るや、的の真ん中に当たった一本目の矢の後ろに二本目の矢が突き刺さって一本の矢になっていたという弓聖と呼ぶに相応しい逸話が残る。弓の道にのめりこんだ同期の男子らと談義を交わしたものだが、阿波先生に師事した東北帝大ドイツ人教師が当時の事を執筆したものが現在でも知られており、これがオイゲン・ヘリゲル氏の「弓と禅」である。

 

「弓と禅」の中で興味深い一節がある。少し長いが哲学の教師だけあって、非常に含蓄がある文章なのであえて掲載することにする。

 

ある時私が特別善い射を出した後師範は尋ねた。「今やあなたは”それ”が射る、”それ”があてるということが、何を意味するかお分かりでしょうか」と。

 

私は答えた、「私はもはや全く何も理解しないように思います。もっとも単純なことですら私を惑わせます。

 

いったい弓を引くのは私でしょうか、それとも私を一杯に引き絞るのが弓でしょうか。的にあてるのは私でしょうか、それとも的が私にあたるのでしょうか。(中略)

 

その両者でしょうか、それともどちらでもないのでしょうか。これらのすべて、すなわち弓と矢と的と私とが互いに内面的に絡み合っているので、もはや私はこれを分離することができません。のみならずこれを分離しようとする要求すら消え去ってしまいました。というのは私が弓をとって射るや否や、一切があまりに明瞭で一義的であり、滑稽なほど単純になるのですから・・・・・・」と。

 

「今やまさしく」師範はそのとき私を遮っていった、「弓の弦があなたの肺腑を貫き通りました」と。

 

オイゲン・ヘリゲル著「弓と禅」稲富栄次郎 上田武 訳 福村出版 より引用、原文ママ

 

これぞまさしく荘子の言う「胡蝶の夢」の境地ではなかろうか。ただし、原語の独語版を知らないので不明であるが著者も訳者も荘子胡蝶の夢を知っており、こちらに持っていった可能性も考えられないことはない。大学生の時に「弓と禅」は読んでいたが、なぜこれに気付けなかったのかと非常にもどかしい思いではある。

 

私の中で二年は束になって飛んでいく。子供のときの二年といえば大きかったが、三十代後半になった私の中で二年では大きな変化は感じられない。しかし写真を見て大いに感動し、大きく変化していると感じることができたのは、私の心が知らず知らずのうちに変化し成長しているからなのかもしれない。もちろん、知人の写真も大変素晴らしいものであり変化していることに間違いはない。どちらが正しいのか、ではなくどちらもあるがままに受け入れて生きていけばよいのだと荘子は説きたかったのだろう。会場の地の風景も変わっていないのではなく、それなりに変化しているが私の心がその変化に気付けなかっただけなのかもしれないのである。

 

18世紀後半から19世紀の詩人ウィリアム・ワーズワースの詩に"My Heart Leaps Up "という詩がある。"The rainbow"という名でも知られているが、

 

My heart leaps up when I behold
A rainbow in the sky:
So was it when my life began;
So is it now I am a man;
So be it when I shall grow old,
Or let me die!
The Child is father of the Man;
And I could wish my days to be
Bound each to each by natural piety.

(Wikipediaより)

 

要するに「子どもの頃は虹を見て感動したが、大人になっても感動する心を持ち続けたい。それが出来なければ生きる意味などないのではないか」と、大人になっても感動する心を持つことの大切さと年々困難になっていく事への悲嘆が汲み取れる有名な詩であるが、これも言うなれば西洋版「胡蝶の夢」なのだろう。

 

松下電器産業、現在のパナソニック創業者で経営の神様こと松下幸之助氏が好きだったという、サミュエル・ウルマンの詩の一節「青春とは心の若さである」というのも然りと。

 

誰もが心のフィルターを通して物を見ている。これは動かざる真実である。

 

私の心もまだ、捨てたものではないようだ。

 

ジョギングの途中のこと。産卵を済ませてきたのだろうか、アゲハ蝶が民家のダイダイの木からヒラヒラと飛んできた。

 

私が走りながらアゲハ蝶を見ているのか、アゲハ蝶が私になってジョギングをしている夢を見ているのだろうか、

 

それとも・・・

 

 

 

(おわり)

 

参考記事:前回の写真展に際して

 

hattatsu-yakuzaishi.hatenablog.com

 

アゲハ蝶ではないが、10年近く前に当地で撮影したアサギマダラ

吸蜜するアサギマダラ。渡りをする蝶として知られる。iPhone5Sにて撮影。