発達障害もち薬剤師の随想録

発達障害を併発する薬剤師である筆者が、ADHD気質からの多くの経験から思う事をASD気質で書くブログです

拗ねたムラサキ

少し忙しいなと思っていたら、一週間近く更新を空けてしまっていた。さすがに最初の頃が飛ばしすぎなだけかもしれないが、今後は週1程度の更新にしてゆったりとやっていきたい。

 

テレビで幕末の頃に活躍した小栗上野介のことが取り上げられていた。小栗上野介は名前こそ知っていたものの、軍を指揮して薩長をさんざん悩ませたわけでもないのに、果たして処刑される必要性はあったのかと疑問に思う程度であった。

 

彼は幕府の海軍力を増強するために自前の軍艦を作ったり整備するための設備である横須賀製鉄所を作ることにし、これらにかかる莫大な資金は生糸の輸出による利益で賄おうと考える。その後の明治政府の富岡製糸場日露戦争で活躍した最新鋭の軍艦の購入などは彼の構想や事業の後追いのようなものであることを考えると、やはり先見の明のある聡明な人物であったのだとわかる。

 

フランスで蚕の伝染病が流行ったために絹の原料が枯渇することになり、日本の生糸にフランスが目をつけたことから全ては始まっていくのだが、この時代のイギリスやフランスの絹の染色について思い当たる節があった。

 

コロナが他人事だった時、まだ自粛がそこまで強く呼びかけられていなかった頃に開催されていた漢方の軟膏である紫雲膏製作イベントがあった。その時の資料は私が執筆したので紫雲膏の紫色について化学染料の歴史など色々と書いた記憶があり、今回は紫雲膏の色でもある「紫」について書いてみることにした。

 

記事中に度々登場する私が勝手に※師匠と呼んでいる人(※注:危ないビジネス系のそれではありません。あしからず。)のイベントに何回か、お手伝いと称して参加させて頂いたことがあり上述の紫雲膏製作イベントもその一つであるのだが、今から書くのは遡ること6年前の、ある村で行ったイベント(薬草に関するが、紫雲膏製作ではない)でのことだった。

 

紫雲膏の主原料となる紫根の起源植物であるムラサキは、その名の通りかつては紫色の染料の原料として利用され、染料以外にも紫根として抗菌作用や抗炎症作用を期待して紫雲膏や紫根牡蠣湯など各種漢方薬にも利用されてきた歴史があり、根っこであるにも関わらず本当に紫色をしており、紫雲膏独特の香りの元はこの紫根とごま油であると言っても過言ではない。現に紫雲膏製作過程で一気に強い匂いが出るのは、この紫根を熱したごま油に投入してからである。

 

今やムラサキは日本にはほとんど自生しておらず、漢方生薬としての紫根は基本的に輸入品であり、ウィキペディアによると環境省レッドリスト絶滅危惧種1Bに属し、日本国内では文字通り絶滅危惧の危機に瀕している。

 

師(以後、O先生と称する)はイベントが開催される地域の年配の人に必ず話を聞く。以前の記事でマムシについて書いた時もそうであったが、昔その地域で薬草などがどういう使われ方をされてきたのか、他にどういう文化・慣習があるのかを丁寧に聞き出していく。

 

村の中をぐるりと皆で散策をしていると、日清戦争後の旅順でも活躍したというフウロソウの仲間であり下痢の特効薬であるゲンノショウコなどが次々と見つかる。ゲンノショウコの下痢止めの効果は眼を見張るものがあり私も愛用しているが、半世紀近く前の日露戦争に関する映画「二百三高地」でもゲンノショウコにまつわるシーンが見られるほどである。そんな中、ひょんな事からムラサキの話になったのだが、村の年配の女性が「昔は一面にムラサキが生えていた」と話し始めたのだった。

 

今や絶滅危惧種であるムラサキが原野一面に生えていたなど、とてもではないが想像もつかない。O先生も食い下がって熱心に聞き出していた。

 

他の参加者の方が、「Oさん、なぜムラサキは絶滅危惧種になってしまったのでしょうか?」と聞いた時、彼がぼそっと放った言葉が忘れられない。

 

「ムラサキはさぁ、誰も見てくれなくなって、もういいや!ってなっちゃんたんだよ。きっと。」

 

旧帝大卒のバリバリの理系人間であるO先生の口からそんな言葉が出てくるからなお面白い。もっとも開発が進んだ結果として自生できる環境が限られるようになり、結果として生息数が大幅に減少してしまったのだろうが、これはこれで面白い見方ではないかと思う。

 

ムラサキは日本では江戸紫の染料として使われてきたものの、歴史の流れとして安価で品質が安定している化学染料には敵わず、ムラサキが染料として利用されることは無くなってしまった。漢方は漢方で明治以後の医療は一転して西洋医学一色になった結果として見向きもされなくなったものの、それでも一部の有志が細々と行ってきてくれたおかげで何とか今に至るわけだが、医療、染料ともに利用されることが無くなったので拗ねてしまったということなのだろう。

 

紫色の化学染料の歴史は何の因果か明治維新のほんの数年前に遡る。ウィリアム・パーキンというイギリス人が、マラリアの特効薬であるキニーネの合成を研究している過程で出来た偶然の産物であったのだが、本国のイギリスではあまり流行らずに海を隔てたフランスで絹を紫で染めたものが流行したという。しかも原料が石炭からガス燈を灯すための石炭ガスを作るときに副産物として出るコールタールであり、これはいわゆる「ゴミ」のようなものであるから安上がりなことこの上ないときている。

 

紫色は洋の東西を問わず、特別な最高位の色とされてきた歴史がある。僧侶のまとう法衣の色、古代日本における聖徳太子の冠位十二階の最高位は紫色であるし、弓道のゆがけ(右手にはめて弦を引っ掛ける、革の手袋のようなもの)の紐などに私の物のように紫色が使われていることがあるが、紐の紫色は小笠原流の流れをくむ人が師範を務めている必要がある上に、薬指の革だけを紫色にすることは令和の時代においても免許が必要であるという。

 

海外でもウィリアム・パーキンがモーブを発見した後、ヴィクトリア女王がモーブ染色の衣服を着用した事を機に紫色が流行し、当初の目的であるマラリアの特効薬の研究はどこへやら、彼は染料の開発に勤しんで富豪になったという。

 

かつて武蔵野台地に群生していたムラサキの根を江戸紫の原料としていたことは既に触れている。歴史に「もし」はないが、もし、もし、モーブ発見前に江戸紫で染め抜かれた絹がフランスで流行っていたら、非科学的な絵空事かもしれないが、ムラサキが拗ねてしまうのが少しだけ遅れたかもしれない。

 

<参考記事>

 

文中の、私が勝手に師と呼んでいる人について

hattatsu-yakuzaishi.com

 

マムシを利用した伝統文化に関して(※閲覧注意※)

hattatsu-yakuzaishi.com