8月もさすがに下旬になると青空にウロコが生えてきて空が高くなり、モワッとする湿気と熱気が混じった空気が心なしかマシになる気がする。
この時期になると思い出すのは小学生の頃に飼っていたカブトムシである。
ホームセンターかどこかで買ってきた幼虫をなんとか羽化させるとオスになった。
セミもあまり鳴かなくなるこの時期、カブトムシが目に見えて弱ってくる。彼らの(う〜ん、男の子のヒーローはツノのあるオスなので)寿命はわずかに一夏である。クワガタは冬眠するけれど、カブトムシは冬を越せないと親に言われて「え?このカブトムシは死んでしまうの?」と摩周湖の伏流水のように心がキレイで純粋だった少年時代の私は悲しそうな顔を上げる。
やがてどんなに突付いても動かなくなったことを確認すると悲しくて泣いた。私の中の摩周湖の伏流水はまだそこまで濁っていない(ことを祈る)ので今でも泣くだろう。
庭の木のそばに穴をスコップで掘って亡骸を埋めて割り箸で墓標を作った。数週間して改めて掘り返してみるとツノのついた外殻がそっくりそのまま残っていたが、中身はスカスカの空っぽで信じられないくらい軽くなっていたことをよく覚えている。
5年前に地方に住んでいた時に、地域の草刈りをしていて朽木を蹴ると下の腐葉土にカブトムシの幼虫が何匹もいた。よく見ると朽木にも挟まっているではないか。小学生の頃を思い出したのは言うまでもない。
立派なノコギリクワガタのオスを誰かが見つけてきて、やるよと言ってくれたのでこれももらうことにした。
現場の腐葉土を幼虫の餌のために持ち帰り、虫かごを2つ買ってきてクワガタとともに飼うことになったのだが結果としてクワガタは3日めには森に放っていた。
虫かごの壁際を利用して作る蛹の蛹室を見たい衝動を抑えること1ヶ月ほどして、3匹いた幼虫のうち2匹が羽化した。2匹とも元気なメスでホームセンターで売られている養殖の成虫とは溢れ出る生命力が桁違いであり、野生の底力を思い知った。
なんとこれも3日めには森に放してしまった。
これには自分でも驚いた。
飼えない、というより虫かごという狭い空間に閉じ込めておくことに耐えられなかったのである。
昔、親や祖父母がカブトムシを逃してやれと言っていた記憶がある。当然、なぜわざわざ逃さなければならないんだ?と猛反対し、結局死ぬまで面倒を見ることにしたのであった。
ふと、あのときの大人たちの「逃してやれ」という言葉が頭に蘇ってきたのであった。
なるほど虫かごに入れて昆虫ゼリーを与えていればそれなりに夏は越せるだろうし、天敵にやられてしまうこともなく天寿を全うすることができるだろう。
しかし本来は大自然で生き大自然で死んでまた土に還っていく運命なのである。
逃せばその日のうちにカラスにやられてしまうかもしれない。
車にぶつかって死ぬかもしれない。
けれども狭い虫かごに閉じ込められて一生を終えるよりもずっと、本来の生き方をしていると思えてならないのだった。
カブトムシを虫かごで飼えるのは子供時代の特権だったのだと、毎年この時期になると思い出しては感慨深くなる。
(おわり)